2014年03月21日

二本松城 穴太積み石垣を攻める vol.2 迫力たっぷり。箕輪門

二本松城編 続きです。


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石垣っぽい感じになってきて、やっと二本松城だぁ〜。


右側に大きな石がある。ただの石ではない!
これも二本松城での名所です。



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戒石銘(かいせきめい)。国指定史跡。

二本松城は丹羽氏10万700石の居城。
城の東側に藩庁があって、藩士たちの通用門がありました。
その藩庁前にあったのがこの石。
5代藩主の丹羽高寛(たかひろ)公の時に藩士の戒め(いましめ)とするため、命じて刻ませました。

刻まれているのは漢文なんだけど、二本松市教育委員会発行のパンフによるとこういう意味のようです。

お前がお上から戴く俸禄(給料)は、
民の汗と脂の結晶である。
下々の民は虐げ易いけれども、
神をあざむくことはできない。


武士とはどうあるべきか、戒めを説いたもので、二本松藩士奮い起こしたものであり、戊辰戦争にて藩士の多くがこれを心に刻んで西軍に向かっていきました。
教育資料として、また行政の規範としての価値を認められ、国史跡「旧二本松藩戒石銘碑」として指定されました。

大河ドラマ「八重の桜」では会津の教えとして什の掟が伝わっていることが有名になったけれど、これは二本松藩の大人版。
こういった教訓がどこの藩にもあったのでしょうね。


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左に進むと石垣と櫓門が見えてきました。

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箕輪門の石垣。箕輪門の左側にも石垣と城壁が続きます。

箕輪門は初代藩主の丹羽光重公の時代に作られましたが、戊辰戦争の時に焼失。
再建の声が高まり、昭和57(1982)年に再建されました。
再建とはいえ、とても立派な石垣と門なのです。


二本松城はそもそも畠山満泰(二本松満泰)が築いた中世の山城
伊達正宗に敗れて二本松氏は滅亡。
一時期、伊達正宗の命で片倉景綱、伊達成実が二本松城代になっていたこともありました。

その後、会津若松城の城主、蒲生氏の支城になり、その後は上杉景勝が入城したりと、北の有名どころの戦国大名が次々と入っていたのです。
なのにイマイチ、マイナーなのはなぜだ!?


江戸時代になり、伊予松山藩主で名城「松山城」を築城した加藤嘉明が会津藩の初代藩主としてやってきました。
加藤氏は親子二代で近世城郭として大幅リニューアル
さらに丹羽光重が入封して山麓に三の丸御殿や箕輪門を建て、城下町も整備ました。

二本松城は山の上のほうは中世山城、山麓は近世城郭という二つの建築様式で建てられ、その跡が残っている城なのです。


では、正面から攻めてみる。
とはいえ、大手門から歩いて坂を登って下ってまた上って15分経過。
もうすでに攻める気力はナシ。根性のみで攻め入る!


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箕輪門の前にゆるやかな坂道。ここだけ見ると、決して他の城には負けない!


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あら?なんか銅像が。

これ、昔はなかったよなぁ。と思ったら。平成8(1996)年に建てられたそうな。
戊辰戦争で戦った二本松少年隊とその無事を願って服を縫う母親の像です。
大河ドラマ「八重の桜」にも出てきた砲術指南の木村銃太郎が指揮をしています。
そして一段下がったところでは二本松独特の「突き」の構えをした剣士。

二本松藩では古来から「突き」の剣が伝わっていました。
これについては後述するとして。

この広場は「千人溜(せんにんだめ)」といって、藩兵が集合する場所。
二本松少年隊もここからそれぞれの場所に出陣していきました。

城内のもっと奥に二本松少年隊の碑があったことは子ども心に印象に残っていて、だけどうちの両親はまったく歴史に興味がなかったもので、二本松少年隊って何!?と謎でした。

「二本松少年隊」というのは後年つけられた名称で、当時は特に隊名はなかったそうな。
「白虎隊」のような隊名があったら、もうちょっと有名になったのかなぁ。

同じ少年剣士として会津の白虎隊のほうが圧倒的に有名だけど、彼らは16〜17歳。
(一部、年齢を偽って15歳から参加した隊士もいたそうです。)
二本松の少年達は彼らよりも若い13〜17歳で圧倒的に若かった。

二本松藩には「入れ年」という二本松藩独自のローカル・ルールがありました。
二本松藩では成人として扱いを受けるのは、数え年で20歳。
18歳になった時点で藩に「成人しました」と届けると、「了解。じゃぁ大人の兵として勤めてよ。」と承認される制度でした。
二本松藩が「2歳のサバ読みOK」と黙認してたわけです。

1868年。
戊辰戦争で会津は賊軍とされ、薩摩、長州をはじめとした西軍が攻めてくる。
5/1に北の守りの要だった福島県の白河小峰城が落ちました。
二本松藩は白河城に応援を出していました。二本松城は手薄な状態です。

7/26に「三春滝桜」で有名な三春にある三春城が無血開城
7月中旬に出陣の年齢が20歳(事実上の18歳)から17歳まで下げられました。
「入れ年」を利用して、事実上、15歳から出陣できるようになりました。

砲術指南の木村銃太郎の門下の少年達は全員で相談して出陣を懇願したといいます。

7月27日。二本松のすぐ南にある本宮城が占拠される。
とうとう出陣の年齢が15歳まで引き下げられる。
事実上の13歳での出陣が可能になり、62名が出陣しました。

こうやって書いてみると、土地勘があるだけに、だんだんと北に攻めてくる様子が妙に臨場感があって恐ろしい。

「入れ年」は戊辰戦争の時に作られた付け焼刃の制度ではありません。
「いざという時には藩のために戦え」というのが根付いていたんでしょうね。
その忠誠心といったら。二本松の藩士って本当に一途なんだわ。

一度は隠居した老人も駆り出されるくらいの兵不足と、「入れ年」というローカル・ルールにより、多くの少年達を戦争に向かわせることになったのです。

隊士の戦いの跡は、二本松城周辺に石碑として残っています。
ぜひ、敗者の歴史も知っておいていただきたい、ということで長々と書いてしまった。

気分を変えて、いつものように攻め入ります。


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ゆったりとした坂道。昔は砂利道じゃなかったっけか?

右側に門があるんだけど。

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右側にあるのが箕輪門。でかっ!

まず、攻め入ると正面からガンガン矢や銃が飛んでくるな。
しかも三方が囲まれているので、左からも攻められる。
右の櫓門からももちろん攻められる。

もうちょっと箕輪門に近づいてみると。

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多門櫓と箕輪門、二階櫓。
二階櫓には狭間石落しもあるねー。
でも、この二階櫓は現存する絵図には二階櫓は描かれていないそうです。

これだけ見ていると他の城とも遜色無いので、守りはそれなりに堅いと思うんだけどな。
それでも1日で落城したということは、やっぱり兵不足だったのかなぁ。


と、考えながら箕輪門を突破してみます。

城内編に続く。


おすすめガイド本

まっぷる福島 会津・いわき'14
るるぶではなく、まっぷるを買ったのは、二本松城が載っていたから
二本松城においでませ♪



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posted by ゆーか at 22:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 福島県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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