2014年04月26日

牛久城 vol.2 主郭への道のりは長いのだ。 〜牛久沼のほとりを歩く旅〜

小坂城、東林寺城ときた茨城県 牛久沼のほとりを歩く旅。
牛久城編の続きです。

廃土から戸張出口に着きました。
ここには今でいう大手門があったところ。

IBR02_35.JPG
大手門跡の石碑。



案内板によると

牛久城は、16世紀のはじめのころ、岡見氏によって築かれたといわれる。
天正18年(1509年)岡見氏滅亡後、上野金山(こうすけかなやま)城主であった由良国繁が入場した。
元和7年(1621年)、由良氏が除封(じょふう)になり、廃城となった。
城は周囲三方を沼に囲まれ、一方の北側は大地を掘り切った要害堅固な旧城中集落全域を包む大規模な城郭である。
大手門は、堀切りのほぼ中央に「喰い違い虎口」と「枡形馬出し」を備えた、厳重なものであった。


現在は、大小5本の道路が集結して牛久城への1本の道になっています。

IBR02_46.jpg
この道路は昔の道の名残が残っているのではないかなぁ。
とにかく複雑な構造だったことは伝わってくる。

そしてここから先の道は、緩いカーブの先に左折れ、緩いカーブの先に右折れなど、微妙に見通しのきかない道になっている。
攻める側としては攻めにくい。
防御について考えられているんだろうな。と推測できる。
急な右左折を要するところは、門があったのかな?と想像しながら歩いてみる。


途中、得月院(とくげついん)というお寺の前を通過。
その先にある愛宕神社の中に土塁があるというので入ってみる。


IBR02_36.JPG
ちょっと小高い丘のようになっているところにある愛宕神社のお社。
この裏に土塁があるらしい。神社ということなので一礼して入る。


IBR02_37.JPG
おぉ。断崖絶壁。というのはオーバーだけど、簡単に降りられる感じではないな。


IBR02_38.JPG
方向を変えたところから写してみた。でもわかりにくいなぁ。


この愛宕神社。あとから調べたところなんと古墳だったそうな!
古墳の頂上に神社のお社が建てられています。
削り取られて土塁として使われたようです。
そういえばこの付近の地図を見たときに「古墳」の文字を他に見たような。
牛久って古墳があるところだったのね!
古墳と土塁が同時に味わえる。なんて贅沢な!


そして緩いカーブと右左折を繰り返しながら住宅街を抜け、牛久城の案内看板がある一角へ。


IBR02_40.JPG
牛久城 三の丸に到着〜。

この時代の城の縄張りの呼び方は「曲輪(くるわ)」なのか「丸」なのか。どちらが正しいのかしら。
時代的には「曲輪」だと思うんだけど、ここの案内板には「丸」が使われていたので「丸」を使うことにする。

この案内板でやっと牛久城のことが理解できました。

・牛久城は岡見氏によって1550年頃に築城。北條氏と佐竹氏との境界にあった。
 (小田氏が没落した後、岡見氏は北條氏と同盟関係になった。
  よって北條にとっては佐竹氏との防御ラインだったわけね。)
・天正18年に(1590年)に豊臣秀吉軍の東国攻めによって開城。
・秀吉は由良国繁を牛久城の城主とした。

 (ここで由良氏が出てくるのか!)
・関ヶ原合戦後の元和9年(1623年)に廃城になった。

いろんな氏族が出てきたけどやっと関係性がわかったぞ。

案内板の縄張り図。

IBR02_39.JPG
今、いるところは縄張り図でいう木戸口
緩い右カーブに沿って進んでいく。いよいよ城らしくなってきたぞ。


いよいよ主郭部へ攻め入る!
つづく。



図説 茨城の城郭

茨城県の城めぐりのバイブル。らしい。



お城巡り ブログランキングへ
ブログランキング参加中
更新の励みになります! ぽちっとひと押しで応援お願いします!


このブログの成分分析はこちら。
blogramで人気ブログを分析


ラベル:山城を歩く
posted by ゆーか at 21:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 茨城県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック